三井寺(滋賀県大津市)R4.11.14
三井寺は正式名を長等山園城寺(おんじょうじ)と言い、三井寺は通称となります。園城寺には湧き水(霊泉)があり、天智・天武・持統の各天皇の産湯として使われたことから「御井」の寺と言われたのが転じて「三井寺」と呼ばれるようになったと言われています。現在では西国三十三箇所の第14番札所の他、多くの霊場となっており、また、多くの国宝を所蔵する寺でもあります。

園城寺の創世記の記録は殆ど残っていませんが、大友与多王が建てた寺を朱鳥元年(686年)に天武天皇が許可し、「園城寺」の寺号を与えたのが始まりです。一時は比叡山延暦寺の別院となった時期もありましたが、宗派の争いにより正暦4年(993年)には再度延暦寺から独立しました。その後も両派の争いは続き、結果園城寺の建物は全て焼かれてしまいました。その後園城寺は平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、鎌倉時代にも源氏からの信仰を集めていたため、幾度と繰り返された延暦寺からの焼き討ちの度に復興をしてきました。

戦国時代には織田信長と、その後は豊臣秀吉とも良好な関係を保った園城寺でしたが、文禄4年(1595年)に突如秀吉の怒りにふれ、廃寺を命じられました。それでも秀吉の死の直前には円城寺の再興が許可され、江戸時代には再度栄えたものの、明治維新後の明治6年(1873年)には敷地の北側の殆どを陸軍用地として接収されてしまいましたが、現在も広大な敷地を誇る壮大な寺の姿を保っています。結局園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上し、そのうち14回は延暦寺による焼き討ちという、稀に見る存亡の激しい寺だったと言えます。

園城寺はどちらかといえば桜の名所であり、モミジは比較的少ないのですが、敷地の最南端に位置する毘沙門堂から微妙寺までの間、そして最東端の三井寺霊園付近にはまとまったモミジを見ることが出来ます。しかしながら私が訪れたときは、日当たりのいい場所は見頃が過ぎて、日陰の場所はまだ緑色であったため、撮影には厳しかったです。その後も広い参道には殆どモミジはなく辛かったですが、最北端に位置する金堂から仁王門までの一帯にはまだ見頃といえる紅葉があったので救われました。ここより先に訪れた石山寺(紅葉の名所として有名)と比べて紅葉狩りの観光客が少なく感じたのは、境内の広さの差だけではないのかもしれません。